ころころころころころころころ
転がる。
転がる。
止まらない。
坂の終わりで砕けるまでは。
とてとてとつたない足取りの自分の足を感じながら、同じようにたぷたぷと揺れる桶を眺めながら、歩いていた。
それは、いつもの単純作業で唯の水汲み。
いつもやっているのにやっぱりとてとてと足は安定しないけれど、それでもこれは私の仕事。
そんな風にいつも通り、私は帰宅をしただけなのに。
夏の太陽が外とは裏腹に家の中に他の季節よりも濃い影を作っている。
影の中にある家の中は毎年のことのように夏の湿気と蒸されたような空気が其処に溜まっていた。
そこにふと、何かいつもとは違うようなものがある気がした。
何か?
解らない。
唯―――あまり良くないもののような、気が、した。
桶の水が縦に裂かれた。
水が私と、誰かを濡らす。
赤?水なのに?
あにしゃん?
泣いてるの?
鋏、赤いね。
声が聞こえる?
ははしゃん?
暗くて、よくみえ、な
どさ。
白昼夢のような一瞬が、終わった。
「ひやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
兄の首から肉の断面が覗いていて、兄の体は私にもたれていて、兄の手は鋏を握っていて、兄の鋏は私の首を掠めていて、兄の眼からは涙がこぼれていて、兄の口からは――――
顔が引きつりそうなくらいの勢いで目が開く。
見えるのはしみのついた天井で、部屋はまだ暗かった。
それでもどうやら朝方になりつつあるようで空気は少しひんやりとした清潔感が漂っている。
それに比べて、自分の体はじっとりと汗で湿って、息が上がって暑かった。
熱を外へ逃がそうと、息を吐く。
冷気を中に入れようと、息を吸う。
吐いて。
―――にんげん、気持ち悪い
吸って。
また、目を閉じた。
「あにしゃん。あにしゃん。あにしゃん。あにしゃん」
ころころころころころころころころころ、と転がっていたのです。
私たちの生活はずっとこのまま転がり続けるものだと思っていたのです。
「あにしゃん。あにしゃん。・・・・泣きやみまちたか?もう、泣いていまちぇんか?」
それでも、坂は終わってしまうものだということを私は始めて理解したのです。
どんなに揺すっても、砕けたものは、止まってしまったものはもう転がらないのです。
何が起こったのかは知りません。
ですが、家の闇の中にぼんやりと見える母親がもう泣かないことと、本当に気味の悪いものに触っているような顔をした兄の顔がゆっくりと力なく解けていくことは、二人を良く知る私は「おめでとう」といってあげなくてはならない気がしたのです。
「おみぇ、でっと、う。・・・・・・ちゃよっ」
抱きしめる力が強すぎたのか、涙を堪えるのに精一杯だったのか、「然様なら」はいえなかった。
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宇治がみた兄と母親の最後(の夢)。
全容は、蚯蚓の剪刀子を使っての自殺ってだけなんですがね。
剪刀子にとって人間・動物は兎に角気持ち悪いもの。
蚯蚓は元々消極的な他殺願望者。
自殺はできなくって、でも死にたくて。
蚯蚓の口調が全部過去形なのは「今」は哀しいという感情が強すぎて「今」何を自分が考えてるのか解らないから。
宇治は蚯蚓の願いにうすうす気がついてる。そして、自分は蚯蚓にとっては要らない子だと思ってる。
兄が自分を妹として見てなくて、唯の気持ち悪いものとして思ってることも解ってる。
それでも宇治にとっては二人は、母親と兄でした。
涙がころころとつたっていく
これもそのうち砕けて消えるのでしょうか?PR