【君に心があるならこの気持ちを伝えられるのに】
子供の癇癪に似ていると水藻は思う。
「ひっ……っ、っ~…っ、スンっ」
嫁の水屑が風邪を引いたのは昨日のこと、とりわけ珍しいことでもなく一般的な看病を水藻が出来ないわけでもないので、適当に看病をしていた矢先の出来事だ。寝ていた水屑が跳ね起きたかと思うと、水藻の胸にすがり付いて泣き始めたのである。
水藻は小さく嘆息する。実のところ水屑が熱を出した後、こういう状態になったことは過去何度かあったのだ。
ああ、くそ…めんどくせぇなぁ。
心中これで言い尽くせる程度には水藻は場慣れしていた。兎にも角にも、水藻は自分の右肩の骨を左腕で無理矢理外す。一般的に言うところの脱臼である。体内の水を伝ってみしぃっと筋と骨が痛む音がしたが、顔半分をわずかに歪ませただけで表立った反応はしなかった。
どうしてこんなことをするのかといわれれば、水藻は正直苦笑するより他はない。何せこの感覚を自分の誰かが理解できるとは到底思わないからだ。
泣いている奴を問答無用、神経反射的に殺したくなるなどという感覚を理解されても困るといえば困るのだが。
間違ってはいけないが、これはあくまで感覚であり思考ではない。確かに水藻という男は性格的にそういう側面を持っていることは間違いないのだが、だからといってないているだけで『じゃあ、死ねよ』という極端な思考に行きつけれるほどはじめから頭がイっていたわけではないのだ。たとえば、他人に己の神経を逆撫でされてついカッとなって殴るという行為よりもむしろ、自分の嫌な音(たとえば硝子を引っかいたような音など)を聞いて反射的に耳をふさぐ行為に近い。
だから、水藻は感覚を思考でねじ伏せないと他人との共生が不可能であるということをまず自覚した。自分を削って他人をねじ込むのが人間関係なので全く疑問はなかった。ただ我慢が必要なだけである。
相手が泣いていたとして、自分が怒っていたり、他人が居ればまだそこまで我慢は必要ではない。表層の感情があるうちは適度に腹の底の衝動もごまかしが効くし、他人が居れば気を紛らわすこと自体もまだ簡単だからだ。
ただこういう場合は駄目だ。
水屑にはじめにこうやって泣きつかれたときは、そのまま突き飛ばして外に出た。慣れるまでは水屑を慰めた後胃の中のものを吐瀉することを繰り返した。そして結論として、痛みをもっていれば多少なりともマシであるらしいというところに落ち着いたのだった。(あとは相手を犯すということも結構有効なのだが、相手が病人で嫁なので気が引けるのである)
「ほら、泣くなっつーの」
「ッ、ッ、ッっく、、~~~~っ、」
「ったく、大丈夫だから」
左手で背中を軽くなでながら水屑の頭に軽く頬乗せる。真近にみえる白い線維のよう髪が夜の中で浮いているようだ。片手で抱きしめても折れてしまいそうな身体は神経を変にざわつかせる。
腹の蟲がざわめく。どろっした殺意が自分の胃の中で、頭で、のたうつ。非常に鬱陶しい。しち面倒くさい。『お預け』くらいできねぇのかよ。
相手の声が小さくなる。泣き止んできたのかと覗き込むと、胸倉をつかまれて、押し付けるだけの接吻。
間。
間。
間。
へただな。
場慣れとは悲しいものである。いや、こういう嫁の行動には全く慣れてないというか、初めてだが。
熱が上がったのだろうか、いつもお人形のように白い肌が薄桃色に染まって、涙で長いまつげが艶を増していた。どこか必死そうな様子で薄い唇がいつまでも水藻の口から離れなかった。
必ず死ぬなら今すぐ死なせた方がいいかなぁという雑念を振り払い、一旦顔を離したあと、腫れた瞼に改めて唇を落とした。
ぱちりと開いた虚空の瞳が所在無さ気に揺れていて、視線が不思議な圧力を持っている。しかし感情の一端は目にも顔のどこにも現れてない。
表情のない顔から涙が滴り落ちる様は、なんというか酷く綺麗だった。
ぞわりと腹の蟲が這うのを感じて、また水屑を自分の胸に閉じ込めた。
「だんなさま」
か細い。今にも消えてしまいそうな泣き声が聞こえる。
「きらいです」
知ってらぁ。心中で答える。
「あいしています」
それは知らない。
けれど、どうしてだか「きらいです」の言葉のほうが美しく感じてしまって、昔自分が衝動で殺した従兄弟のことを少し思い出した。
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狂人って疲れるねってことと、水屑は大切にされてるって話。
水屑は愛をしってるけど、水藻は愛を知らない。
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